グループはいずれなくなるか?

カポエイラ全般

前回の記事「グループを軽んずるなかれ」にとても深い洞察のコメントをいただきました。facebook上のことですので、このまま埋もれさせてしまうのはもったいないと思い、それを少し膨らませて記事の形でお答えさせていただこうと思います。オリジナルのやり取りに関心のある方はこちらのコメント欄をご覧ください。以下はそのコメントの抜粋です。

グループ単位でカポエイラが行われるようになったのは、カポエイラの歴史からすれば、ごく近年のことですよね。
グループで行っている人たちや、活動を引っ張っているメストレでさえも、グループのメリットもデメリットも感じながら、まだまだ模索していると言えるところもあるのではないでしょうか。三十年続いた大きなアンゴラのグループの創始者であるメストレも去年脱体を表明しました。悩みは尽きないようです。ルーアハスタのように自分のグループを持ちたくないというメストレもいます。

グループでなければ成し遂げられないことがあると思うし、それによってカポエイラは世界中で大きく発展したと思います。でも、これが永遠に正解の形なのかは正直わかりません。もしかしたら、もしかしたら役目を終える日が近いのかもしれない。

※久保原のfacebookの投稿(2019/02/13)に寄せられたShinsaku Iúna Matsubaraさんのコメントから抜粋。

カポエイラがグループという形態で取り組まれ始めたのはビンバ、パスチーニャ以降のことです。1930年代あたりからなので、ほぼ90年前ですか。近年といえば近年ですが、今日カポエイラが世界遺産に認定されるに至るカポエイラ発展のスタートがこの時点にあります。

ではなぜグループという形を取るようになったのでしょうか。問題はそこですよね。それまでは「ならず者のたしなみ」として警察の取締りの対象となり、世間からも「黒人という劣った人種の文化」として蔑んだ見方をされていた状況から、なんとか社会的に認められ、偏見なくブラジル人全体にカポエイラを広めたいというのがビンバにもパスチーニャにも共通の思いでした。そのために彼らの取った道は「改革路線」のヘジオナウ、「伝統路線」のアンゴーラと違いはありましたが、目指すゴールには多分に共通の願いがあったのです。

そのときに2人ともが選択したのがグループという形態でした。これは普通に想像すればごく自然の成り行きだったと思います。それまでバラバラだったものをまとめようというときに、みなさんだったらどんなことから手をつけますか?まずは考えの同じ人を募り、グループを作って、それに名前をつけ、ユニフォームなんかをそろえて、メンバー同士が一体感を感じられるのと同時に、対外的にもまとまりのあるものとして認知してもらおうと考えるのではないでしょうか?実際、これ以降のカポエイラはこういう形で社会に受け入れられ、発展してきたのですね。そしてそれは今日まで続いています。

「ところが」、というよりは、「いうまでもなく」と言ったほうがいいでしょうか。グループという形態がカポエイラにとって理想的で、運営上なんの問題も抱えないかといえばそんなことはまったくないわけで、およそ人間の集まるところ問題は常に山積です。

これは私の見方ですが、グループというのを現代の家族制度に見立てて考えるとかなりすっきり了解できるのではと思います。きわめて乱暴に言えばですよ、私たちのおじいちゃん、おばあちゃんの時代は、男がえらくいて女は従うという風潮だったものが、女性も社会に進出し、キャリアを重視するようになるにつれて、婚姻率は下がり、出産率も下がりました。離婚や非婚も増え、それに対する偏見は弱まり、はたまた同姓婚が認められ、生物学的には子孫を残しえない同姓カップルが他人の子供を養子に迎えることまで認められ始めています。このままでは家族が崩壊してしまうのではないかと危惧する人もいれば、いやいや個人が主体でさまざまな生き方があっていいんだ、大事なのは本人が幸せかどうかで、家族の形もいろいろでいいんだ、という意見もあります。

このような家族を取り巻く状況を、カポエイラのグループと「ひとりカポエイリスタ」の問題に重ねてみると、おんなじ価値観の多様化が別の分野で表れているだけだということに気づきます。とはいえ現代の世の中が依然として家族という単位で動いていることは事実です。それに対する批判やほころびはあるにせよ、本流はまだまだ家族という単位で構成されています。私がカポエイラの単位はグループだというのもこれと同じ論理です。

たとえメストリ・コブラ・マンサが自分で作ったFICAを抜けても、メストリ・ルーア・ハスタが最初からグループを持つことに関心がなくても、カポエイラ界が依然としてグループを中心に回っていることには変わりありませんし、いうまでもなくそれは彼らの偉大な業績を減ずるものではありません。一方でフェミニズムを主張するメストリたちも、グループという制度を解体するところまではまだ行っていないようです。

確かにコメント主のイウナさんが言うとおり、「全ては縁」なんでしょうね。自分は一生ひとりでいいんだと思っていた人が素敵な恋人に出会ってコロっと結婚してしまったり、いいお嫁さんになるのが夢だといいながら、納得できる出会いがなかったりするのと同じで、グループやメストリとの出会いも別れも半分は自分の意思を超えたところにあるものなんだろうと思います。

ただ私個人的には、カポエイラの中でグループの持つ意味はそう簡単にはなくならないだろうと思っています。理由は2つあります。ひとつは、前にも書きましたが、他人との衝突をたくみに避けて、できれば自分自身の心の平穏を保ったまま人間関係を築いていくところに、カポエイリスタとしての究極の目標、人生のマンジンゲイロにいたる修業を見出せるという点です。与えられたグループという枠組みの中で、さまざまな問題を乗り越えながらどこまでやれるものか、安易にグループを見切ってしまうことなく頑張ってみる。大袈裟だなと思われる方もいるかもしれませんが、21世紀におけるカポエイラの修業価値のひとつはここにあると私は考えています。

とか、格好のいいことを書いていても、実際の私のカポエイラ生活は、グループ運営や人間関係をめぐるストレスにまみれていますよ(笑)。ゴテゴテ、ドロドロです。グループなんかほっぽり出して純粋にカポエイラに集中できたらどんなに楽か・・・。あ~いかん、いかん、全ては自分の未熟ゆえです・・・

もうひとつの理由については、次回につづく。

※facebookよりもブログのほうが引用やリンクなどが格段に読みやすいです。
※この記事の話題に関心のある方は、次の記事もあわせてお読みいただくと流れが分かりやすいと思います。
「グループは窮屈で、そこがいい?」http://www.vadiacao.com/2019/02/11/grupo-e-um-saco-mas-e-bom/
「グループを軽んずるなかれ!」http://www.vadiacao.com/2019/02/13/valorize-mais-os-grupos/

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