グループは窮屈で、そこがいい?

カポエイラ全般

昨日のホーダでうれしかったこと。あるお母さんメンバーは忙しいなか、お子さんを預けて、ホーダだけ参加し、ホーダが終わるや飛んで帰っていかれました。また他のメンバーは、膝が痛くて先週から動けていないにもかかわらず、バテリアに参加してホーダを支えてくれるために駆けつけてくれました。

私の受け取め方では、それはグループに対するコンプロミッソ(責任感)の表れだと思います。もしグループのメンバーでなければ、そこまでしてホーダに来る必要はありません。

疲れているから、雨が降っているから、バイトが入ったから、行かなくてすむのが、グループに属さない人の気楽さです。グループのメンバーであれば、疲れていても、雨が降っていても、バイトは入れずに、ホーダの優先順位を高い位置におきます。もちろん本人にとっては、気の進まないときもあるでしょうが、グループに所属していることがそれを求めます。

これは喩えるなら、何の約束もなく交際している男女と結婚した夫婦の違いにも似ていますね。ポルトガル語では前者の状態をセン・コンプロミッソ(sem compromisso)といいます。文字通りコンプロミッソのない状態、責任も約束もない状態のことです。会いたいときだけ会って、喧嘩をすれば別々の家に帰れます。ほとぼりが冷めたころに電話して、「あの時はごめん」で仲直り。ある意味いいとこ取りのこんな関係が楽しくないわけがありません。

しかし夫婦や家族はそんなわけに行きません。言い合いをしても、しかられても、同じテーブルでご飯を食べ、布団を並べて眠らなければなりません。しかしそれを乗り越えてきた仲だからこその信頼や愛情のあることを私たちは知っています。

とかくわずらわしい人間関係を避けて通る現代人のことですから、どこのグループにも属さず気ままにカポエイラに向き合う人たちが増えているのも納得がいきます。自分のペースで気の向いたときだけ練習し、どこかの「グループ」が行うホーダを渡り歩いていれば、カポエイラ・ライフをエンジョイできます。もちろんそういうスタンスを誰も否定することはできませんし、どの時代にもそういうカポエイリスタたちは存在してました。

ただ私としては、その面倒くさいしがらみの中にあえて身をおき、お互いに思いやることを学び、居心地のよい距離を測りながらともに上達していくところに真のマンジンゲイロになる修養のプロセスを見ます。カポエイラの上達には、技術的にも精神的にも相手が必要な所以ですね。

というわけで別にうちのグループにいなくてもカポエイラができないわけではないのに、いてくれる仲間に感謝を感じた昨日のホーダでした。
Gratidão!

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