カポエイラノススメ(7)

カポエイラ全般

カポエイラのジョーゴは、見かけ以上に頭脳プレイであるという理由からしばしば「肉体を使ったチェス」とたとえられることがあります。ただチェスや将棋であれば、プロたちは数十手先を読みあいますが、身体ゲームであるカポエイラではさすがにそれは無理ですし、意味もありません。

実際にカポエイラで行うのは、こういうことです。いかなる攻撃であれ、攻撃技を出すときは、必ず相手に付け込まれる隙を与えるものですが、その自分の提供する隙を把握したうえで攻撃を出し、相手の反応をギリギリまで観察、分析するという態度です。ですからカポエイラでいう「読み」とは、当たるか外れるか五分五分の勘ではなく、実際の相手の動きを見極めた上での理性的な判断だということになります。

ここで大切になるのは冷静さ(calma)。クールな頭です。

「冷静であればあるほどカポエイラには有利だ」(Quanto mais calmo, é melhor para capoeirista.)とメストリ・パスチーニャは言いました。パスチーニャのレコードに収録されているせりふの中にありますよ。私が入門した当時のメストリ・ブラジリアのグループ・ロゴにも「冷静さは強者の美徳だ」(A calma é virtude dos fortes.)というフレーズが入っていました(あぁ、なつかしい~)。

ところでこの冷静さや理屈で力やスピードをカバーできるという点は、子供のころから運動があまり得意でなかった私には救いでした。強くなくても速くなくても楽しめるゲームだということ、力が弱い人にもスピードが遅い人にも居場所があるという点はカポエイラの強力なアピール・ポイントの一つです。前に書いたスロー・スポーツの流れに重なりますね。

そしてもうひとつ。これはだいぶ後になって気づいたことですが、この冷静さや理屈で力やスピードをカバーできるという特徴は、日本男児の(女性をめぐる)国際競争力の向上、いやいや男も女も一般的日本人の「国際」コミュニケーション力アップにも資するところ大なのです。これが今日のメインディッシュなので、その前に少しだけ下ごしらえを。

まず日本人の押しの弱さについて。

日本人とは何か、どこからやってきた民族で、どういう性格で、他国民と比較してどこがユニークなのか。こういうテーマについた論じた論考を日本人論といい、日本人は昔から日本人論が大好きです。これまで多くの作家、学者たちがそれぞれの視点から様々な日本人論を書いてきましたが、その比較的最近のものに齋藤孝『日本人は、なぜ世界一押しが弱いのか?』があります。詳しい内容は直接読んでいただくとして、自らの弱さを認める(ところから出発する)という視点が私にはとても新鮮でした。私自身のブラジル人とのかかわりの中でも、「あぁ自分は押しが弱いな」とつくづく情けない気持ちになってしまうことがあります。これまでは「ここでそこまでするか」と、逆にブラジル人の押しの強さに閉口し、あきれたふりをしていましたが、実際にはブラジル人のほうが世界標準で、私たち日本人が平均以下に「弱い」のだと認めてしまうのは、むしろほっとさせられます。

もう少しリアルにイメージしてみましょうか。多くは思い浮かびませんが、押しの強い人は日本人にもいます。カポエイラのゲームは対話だと前に書きましたが、たとえば漫才師なら横山やすし、歌手なら松山千春、やしきたかじん、政治家なら石原慎太郎のようなタイプとあなたが議論する様子をイメージしてみてください。対抗できますか?といっても若い人はピンと来ないでしょうね(笑)。最近では橋下徹・前大阪市長も同じタイプですし、もっとも分かりやすいのはドナルド・トランプ米大統領です。平均的な日本人なら、とてもかなわないと最初から戦意を失ってしまうのではないでしょうか。

こういう押しの強さ、弱さはカポエイラのジョーゴ(ゲーム)の中にも反映されます。ブラジル人のなかにはノリとテンションだけでゴリゴリ押してくる人も多く、その迫力に圧倒されてなにもできず寄り切られてしまうということも少なくないと思います。

カポエイラでは言葉が通じなくても分かり合えるんだ、そうだ非言語コミュニケーションなのだ、と語られます。これは確かにカポエイラの美点には違いありません。しかしコトバでないから対等かといったらそんなことはない。態度で押される、視線で殺される、身振り手振りで圧倒されるのです、我々は!

そこで私が拠り所にしたいのが冷静さと理です。理とは論理のこと。相手がいくら怖そうに見えるからといって、所詮は手が2本、足が2本の同じ人間です。蹴れば必ず一本足立ちになりますし、上げた足は必ず着地します。着地の瞬間、正しいタイミングで、正しい方向に、適切な力で足を払えば、床に転がるのは他の人間と同じです。たとえるならトランプのカードを出すのに、どんな恐ろしい顔をしようが、床に投げつけるような乱暴な出し方をしようが、カードの力には影響がないのに似ています。

勝敗をつけず、対話性が高く、なによりも音楽という共通の土俵を持つカポエイラでは、落ち着いて理を通すことで声の大きい人に押し負けない余地を残しています。PRIDEのリング上ではヴァンデルレイ・シウヴァの突進を止められなくても、カポエイラのホーダではまだなんとか対処は可能です(理屈のうえでは・・・)。というのも儀礼性、音楽性を尊重することが大前提とされるカポエイラでは、ルール無用の「なんでもあり」に歯止めがかかるからです。一般的な競技スポーツとの違いがこの辺りに表れてきますね。(つづく)

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