ポル語なしでカポエイラは学べるか?

カポエイラ全般

「ポルトガル語なしでカポエイラって学べるものですか?」と一般の方に聞かれたら、あなたなら何と答えますか?

「動きだけなら何とかなるんじゃない?でもカポエイラって動きだけじゃないから。」なんて答えるでしょうか?だとしたら、やはりポル語は必要だよと答えていることになりますね。

先日も久しぶりに日本でブラジル人の先生の講習会を受ける機会があって、改めて考えさせられました。先生が本当にいいことを話しているのに、参加者のどれくらいがそれを汲み取れているのかなと。

私もしばしば通訳を手伝うことがあります。もちろんその時々でベストを尽くしますが、「ああ、この言い方じゃ先生の言わんとしているニュアンスがこぼれているな」と、訳しながらいつもフラストレーションにさいなまれています。

しかしこう言ってしまうと身もふたもないですが、私が伝えきれてないなと感じるニュアンスも、しょせんは私のフィルターを通した私の解釈であって、それが本当にその先生の言わんとしているものかどうかは保証の限りではないんですね。

だからこそ、やはり一人一人が自分のフィルターでキャッチし、ろ過し、抽出する必要があると思いませんか?

「言葉に頼らず、感じるんだ」というような言い方をされることがあります。もちろん先生のまなざしや物腰、間の置き方など、言語以外の情報はいっぱいあります。これがアラビア語とか、むしろ全く理解不能の言語なら、純粋に感じ取るほうに集中できるかもしれません。しかしなまじ通訳がついて、日本語で説明されてしまうと、その一語、一語の持つ拘束力から自由になることは至難です。

仮に通訳の訳が不正確だったとしたら、その間違ったニュアンスが先生のまなざしやオーラによって強化された形で皆さんの中に刻まれることになります。本で文字だけ読むのと違って、その場のエネルギーや先生のパッションがある分、より強烈な印象となって記憶されるでしょう。そしてそのことに多くの場合みなさんは気づきません。

「カポエイラと生きる」なのか「カポエイラに生きる」なのか「カポエイラで生きる」なのか、1文字の違いで理解するものは全く違ってきます。言葉ってそれくらいデリケートな道具なんですね。場合によってはその人のその後のカポエイラ人生を大きく左右しかねないような、そんな大事な解釈を通訳に任せておいて、みなさん本当に大丈夫ですか?みなさんはメストリの話を聞いているつもりでも、実のところ通訳の話を聞いているんです。なんかちょっともったいないというか、悔しくないですか?

もっともこういう言い方をすると次のように考える人が多いかもしれません。

どうせ自分が勉強したってあの人のレベルにはかないっこない。ならば自分よりできる人の解釈を信用しておいたほうがずっと正確だし安心だよ。

もちろんそういう面があるのは理解できますし、そういう形で許される時期はあります。ただもしあなたが単なるカポエイラ・プレーヤーではないカポエイリスタになりたいと願い、知識や共感もひっくるめたトータルな形でカポエイラを学びたいと望むなら、自らの力でポル語を習得することはもはや避けて通ることはできない道だと腹をくくるべきです。実際ほかに道はないのですから、あとは早く一歩を踏み出すしかありません。

あともしあなたがこれまでカポエイラで得られたものに感謝していて、いつかカポエイラに恩返ししたいと考えているなら、あなた自身がポル語を理解できるカポエイリスタになることは、かなり素敵な恩返しの形です。あなたがポル語を理解できるようになることで、自分のカポエイラが深まるのは言うまでもなく、周りの仲間や日本のカポエイラ全体にも本当に大きな貢献ができます。得るのに手間や時間がかかるからこそ、普通はだれもやりたがらない。それをあなたが引き受けるというのもなかなか粋なミッションじゃありませんか?

Vamo que vamo! Tamo junto!!

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