公園でホーダができないのは是か非か?

カポエイラ全般

先日(8月18日)名古屋市の鶴舞公園でホーダを行っていたところ、通報があったということで公園管理の職員の方が来られて、ホーダを中止するよう求められました。そのあとに音楽関係のイベントもあるとのことで、音を出されては困るという事情も理解できます。さいわいキロンボ(私たちの道場)は電車で一駅のところでしたので、楽器をたたんですぐさま移動しましたが、東京や金沢など遠方からお越しいただいていた方々には、バタバタでホーダの時間がずれ込んでしまいたいへんご迷惑をおかけいたしました。申し訳ございませんでした。

ところで私の心に引っかかっているのは、公園の公共性の問題です。公園が市民の憩いの場だとするなら、私たちもその「市民」に含まれるはずですが、問題は、あの広大な鶴舞公園でカポエイラをすることが他の利用者にとってどの程度迷惑をかける行為かということです。おそらくうちのメンバーにも、とにかく音を出すホーダは騒音で迷惑だから差し控えるべきだという遠慮深い人たちが多いだろうと思います。

おそらく現在の日本社会では、警察や自治体が、一部の人たちのクレーム、通報を聞き入れ、禁止に禁止を重ねていった結果、誰も文句を言う人のいない状況を「公共性が確保されている」と考えるようになっていると思われます。事実どの公園に行っても「ボール投げ禁止」「音出し禁止」「スケボー禁止」「花火禁止」「花見禁止」「フェンス上るの禁止」と、禁止の貼り紙があふれています。どれも公園でできなければどこでしたらいいの、と聞きたくなるようなものばかりです。本来は多くの人たちが利用できる場であるはずの公園が、ほとんど何もできない場所になってしまっているのが現状です。

そこで思い出されるのは2週間前にニュースになった、あいちトリエンナーレの「表現の不自由展・その後」の一件です。従軍慰安婦を表現した少女像や昭和天皇の肖像写真を燃やした展示に対して多くのクレームが寄せられ、なかには「ガソリン缶を持ってお邪魔する」という脅迫まであり、治安を維持しかねるという理由から愛知県の大村知事は展示を中止にしました。巷では「表現の自由がテロに屈した」とか「電話で文化を潰す悪しき事例を作ってしまった」という、表現の自由 vs 行政介入が問題となっています。

その一連の議論の中に税金を使っているのだから思想的に偏った展示をすることは許されないというものがありました。私の立場は、考えに賛成、対処の仕方に反対です。今回の場合は、いわゆる左翼が喜ぶ思想表現に偏っていたのが問題であって、結果として展示そのものが中止にさせられてしまいましたが、理想的には右翼の支持する表現も並べて、展示を決行するべきでした。これまでさまざまな規制により展示が認められなかった表現たちに発表の場を与えること自体には大いなる意義があると思います。

このトリエンナーレの話を、今回のホーダ追い出され問題に私が重ね合わせて考えるのは、税金を使っているから大多数の人が不快に感じるなら即中止というのはまったく反対で、公金を使っているからこそ少数意見や多様性が保障されてしかるべきだという視点が本筋だろうと思うからです。つまり公園の利用をめぐる公共性も、住宅地では到底許容されないカギカッコ付きの「迷惑行為」を、お互い多少は我慢しあって認めあおうよという場こそ本来の公園であるべきだと思います。

不快に思う人が一人でもいたら軒並み禁止にしていくことが果たして住みよい社会を築くのかどうか。快・不快、迷惑の度合いは人それぞれですから、それを徹底していけば、最終的には誰にとっても息詰まる世の中にするだけのような気がしてなりません。

さきほど鶴舞公園を管理する名古屋市緑化センターに問い合わせたところ、一本でもクレームの電話があったら原則中止をお願いすることになるという説明でした。通報した者勝ちというのが現代の日本社会のようです。余談ですが今年からうちの子供たちが通う小学校のマラソン大会が中止になりました。理由は、子どもたちの走るコースの安全を確保するために一時的に交通を規制することに地域の住民がクレームしたからだと聞いています。こういう時代を生きているんですね・・・。

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