ほぼ1か月半ぶりの「カポエイラノススメ」です。その間、メストリ・モアの件や、私たちのグループのカポエイラ・フェスタ「ヴァジアンド2018」での発表準備(『コンテンポラニアのアンゴーラとアンゴレイロのアンゴーラの違いについて』というテーマで発表しました)があったりで、記事は上げていたものの、シリーズからは遠ざかっていました。
というわけで、ここから今日の本題です。
みなさんは戸塚啓『マリーシア』(光文社)という本はすでにお読みでしょうか?ただでさえブラジル関連の書籍が少ない中で、760円で買える新書はお得で貴重な情報源ですよ。
カポエイリスタなら初めて聞くということはないと思いますが、マリーシア(malícia)とは、マンジンガやマランドラージェン、ジェイチーニョと並んでブラジル人をブラジル人たらしめている資質としてあげられる要素です。機転を利かせて要領よく立ち回る、規則があっても柔軟な発想でその抜け道を探るような行為をマリーシアと呼んでいます。マンジンガとのかかわりで言えば、マンジンガから呪術的な要素を差し引いて残るのがマリーシアという感じで私は捉えています。ですからほとんど同じ内容を別の呼び方で呼んでいると考えて差し支えないと思います。
この本で著者は、私たちがカポエイラについて考えているのと同じことを、サッカーの中で考えています。どうやらブラジルのサッカーの強さにはマリーシアという要素が強く関係しているらしい。そしてそれこそが日本のサッカー選手に欠けているといわれている。そもそもマリーシアとは何なんだ。まず戸塚さんはその正体の分析から始めます。次にどうしたら日本人選手がそれを身に付けられるかを、ブラジル人選手たちへのインタビューを中心に探っています。
上の文を、サッカーをカポエイラに、マリーシアをマンジンガに置き換えて読み直してみましょう。ブラジルのカポエイラにはマンジンガという要素が強く関係している。それこそが日本人カポエイリスタに欠けているようだ。ではマンジンガとは何で、どうしたら私たちはそれを身に付けることができるのか。
どうですか?ほんとに私たちがマンジンガについて考えてきているのと同じテーマを、戸塚さんはサッカーの中で追っているんですね。少なくともそういう視点で読むといろいろ参考になる点が見えてきます。
最初に彼は次のように仮説を立てます。マリーシアとは、「狡猾さ」だけを指し示す言葉ではない。「柔軟性を持った発想力」である。それは「勝つために必要な駆け引きである」から、ブラジル人特有のメンタリティや価値観ではなく、フットボーラーならだれもが身に付けるべきスキルである。
次に、サッカーにおいてマリーシアとされる要素を、実際の試合中の具体的な事例に基づいて抽出していきます。その事例の豊富さと分析の精緻さがこの本の真骨頂だと思います。興味のある方はぜひ実際に本を手に取って読んでみてください。ここでは戸塚さんが取材したいろいろな人たちの言葉をいろいろなページからピックアップしてみますね。
*マリーシアとは、指示を待たず、自分の頭で判断すること。
*ゲームには相手があるので、自分の思い通りには進まない。そういう計画が狂った中で柔軟に対応できること。
*相手が格上でも格下でもひるんだりなめたりせず、強い気持ちを持って冷静にしたたかにゲームを進めること。
*精神的なコントロールができること。
*走るスピードや距離よりもポジショニング、状況判断がマリーシア。
*インテリジェンス、ひらめき、創造性。
いかがですか。カポエイラのジョーゴ、マンジンガの特徴としてもそのまま当てはまることばかりですよね。
さらに興味深いのは、ブラジル人がどうやってマリーシアを身に付けるのかという戸塚さんの問いにブラジル人選手たちが答えるくだりです。ある選手は、「ストリートでいろいろな年齢の人たちとサッカーをすることで『生き抜くうえでの術』とでもいえるような思考力を身につける。ストリートのサッカーでは、年齢や体の大小に関係なくボールを奪い合う。日本とは子供の育つ環境が違う。勝たない限り何かを得られない人生を歩んできた人が多い。マリーシアは自然と身につく」と言います。
ここでもストリートの経験が登場してきました。前回の記事「マンジンゲイロ」の内容と重なりますね。ストリートでの厳しい生活にさらされることで自然に生き残る術を学ばされる。そこでむしろ肉体的な強さに頼らないところにマリーシアの生まれる素地ができるというわけでした。
またある選手は「ブラジルではすべての選手が対等。大人になるのが早い。自立するのが早く、自分に自信を持つのが早い。これらすべてストリート経験のたまもの。一方、日本人は真面目、謙虚、先輩をリスペクトしすぎでマリーシアを発揮する妨げになる。年齢の壁、上下関係に影響されすぎ。日本人はリスクを避ける傾向もある」と指摘します。
私の師匠コントラ・メストリ・シャンダゥンも同じ点を指摘します。「ビリンバウの下にしゃがんだら、最初にすることはジョーゴする相手のタイトルや段位を忘れることだ。たとえ相手が有名なメストリでも、手が2本、足が2本の一人のカポエイリスタだと思うこと。そう思わない限り自分のジョーゴは決してできない」。つまりマンジンガなど発揮できるどころではないということです。
和を以て貴しとなす日本民族には、「分かっちゃいるけど、なかなかね」と思ってしまう、耳の痛い指摘ですね。だからこそシャンダゥンは続けます。
Fora da roda pode ser japonês mas dentro da roda tem que ser brasileiro.(ホーダの外では日本人でもいいけど、ホーダの中ではブラジル人でなくてはいけない)。
この言葉は実に深いです。
指摘されたような日本人が背負っている文化的な殻を突き破ってマンジンゲイロをめざす。できることなら日本人の美徳とされる資質はそのままに、ホーダの内と外を巧みに使い分けられるレベルに達するところに、スーパーサイヤ人ならぬ、スーパー日本人に進化する可能性が開けているんだと思います。この点こそ私たち日本人にとっての最大のカポエイラノススメだと、私個人的には考えているくらいです。
そういえば2008年にメストリ・フェハドゥーラ(当時はコントラ・メストリ)を日本に招聘してワークショップを開催したときに、日本人は恥ずかしがり屋だ、カポエイラをするときは変身しなくちゃいけないと言い、仮面ライダーが変身するようなポーズをしながら「ジャポ・ネーゴ(japo-nêgo)!シャキーン」と私たちに変身を促していたのを思い出します。これも日本人の殻に閉じこもっていては越えられない一線があるということを教えてくれていたんですね。(つづく)
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