起源
カポエイラがアフリカから持ち込まれたものか、純粋にブラジルで生み出されたものかは今日まで論争が続いているが、これまでの調査からはアフリカ大陸にはカポエイラそのものの存在は確認されていない。
アンゴラ南部にンゴロ(N’golo)という、カポエイラに動きのよく似た儀礼的ダンスがある(あった?)という報告があるものの、その実態はよくわかっていない。またカリブ海に浮かぶフランス領マルチニーク島にラージャ(Ladja)という、これまたカポエイラにたいへんよく似た格闘ダンスがある。こちらは現在少しずつ研究が進んでいるようだ。
いずれにしてもアフリカにはカポエイラそのものが存在せず、アフリカから黒人が連れて行かれた他の地域にカポエイラによく似た格闘ダンスが見られるということから、それはアフリカ人が奴隷として生き抜いていくための必要に迫られて、ブラジルにおいて創りあげたものだということができる。この意味でカポエイラはアフロ・ブラジル文化の典型なのだ。
奴隷制
アフリカ大陸から連れてこられた黒人たちの多くは、さとうきび園の労働力として酷使された。主人たちは、奴隷が団結して抵抗するのを防ぐため、センザーラ(奴隷小屋)では異なる部族のものを混在させて管理した。植民地の形成期から19世紀の初頭まで、主人やカトリック教会の監視下ではあったが、奴隷たちは自分たちの部族の宗教やダンスなどをすることを認められていた。1820年代に書かれた旅行記にも、邸宅を訪れた来客に主人が「昨夜は奴隷たちの祈祷やダンスで騒々しくてすみません」とわびる場面が出てくる。休憩時間や休みの日など、奴隷たちが自分たちの文化活動を行う時間は、我々の想像以上にあったようだ。
しかし奴隷たちに課せられた労働は厳しく、健康な男子でも平均余命は10年に達しなかったといわれる。収穫期には一日に18時間、15日間ぶっ通しで働かされることもあった。17世紀の終わりにブラジルではじめて金鉱が発見されてから、奴隷たちの投入先も金の採掘場に変わるが、ポルトガル人の富を蓄積するために使い捨てられるという構造に変化はなかった。
ブラジルの奴隷制の研究には一つの大きな足かせがある。奴隷制廃止後、主人たちからの補償請求を恐れた当時の蔵相ルイ・バルボーザが、関連する資料をすべて焼却してしまっているのだ。この行為に対しては、「資料を燃やせば国の恥もいっしょに消し去れるとでも思ったのか」と、歴史家の間にも今日まで根強い批判がある。
キロンボ
奴隷生活の苦痛に耐え兼ねてけわしいジャングルの中に逃亡する奴隷たちは後を立たなかったが、その多くはカピタン・ド・マトと呼ばれる捜索隊に捕まって連れ戻されるか、抵抗した場合は殺された。それでも運良く逃げ延びたものは、キロンボと呼ばれる共同体を形成し、森の奥地で自給自足の生活を送った。キロンボでは独自の法が整備され、アフリカでの部族の違いなどを超えて団結した共同生活が営まれていたといわれる。またその中には白人や混血者の存在もあった。
このようなキロンボが現在のミナス・ジェライス州、バイーア州などに点々と形成された。多くは1年以内に攻め滅ぼされてしまう程度の小さいものだったが、現在のアラゴアス州にあたる地域にあったパウマーリスだけは、1630年から95年までの実に65年間、自治を守り通した。パウマーリスを率いた最後の指導者ズンビは、今日までブラジル黒人運動の英雄である。
ところでキロンボの中で黒人たちが白人たちとの戦闘に備えてカポエイラを練習していたというのは俗説である。上に述べたような理由でブラジルの奴隷制については研究が立ち遅れており、とりわけキロンボについてはほとんど分かっていないというのが現状だ。しかしキロンボでカポエイラが練習された、ましてやズンビがカポエイラの達人だったという証拠は何もない。
リオ・デ・ジャネイロ
今日では「カポエイラといえばバイーア、サルバドール」というイメージが定着しているが、19世紀のカポエイラの中心地はむしろリオ・デ・ジャネイロだった。はじめは奴隷ばかりだったカポエイラの担い手も、時とともに逃亡奴隷、解放奴隷、自由人へ、人種的にも黒人から混血、ポルトガル移民などの貧しい白人へと多様化していく。
彼らはマウタといって、日本の暴力団のようなグループを作って縄張り争いをしていたのだった。政治家の用心棒に雇われたり、対立団体にゆすりをかけたり、活動内容も暴力団そのもの。あげくの果てには警察や軍人の中にもカポエイラをする者が出てきて取り締まりも一筋縄ではいかなかった。
ところでこの時代のリオのカポエイラというのは、現在われわれが親しんでいるカポエイラとはまったく別物だった。ビリンバウ、パンデイロといった楽器、音楽的要素はなく、ダンス的でもない。共通の技もあるが、異なる技のほうが多い。それは第一にケンカ、抗争の道具だった。今日、「メストリ(師匠)のなかのメストリ」と称えられているビリンバウでさえ、19世紀後半頃、バイーアにおいてカポエイラの中に取り入れられているのだ。したがって「伝統的」というときに注意したいのは、それらは案外最近の発明品であるということである。
パラグアイ戦争
1865年に始まったこの戦争では、陸軍の兵士不足を補うために奴隷たちまでもが徴兵の対象となった。政府は戦後の解放を約束したため、軍はたちまち逃亡奴隷でいっぱいになった。その中には多くのカポエイラも含まれていた。前線では弾薬が尽きても剣を取って敵に突進するというような、いかにもカポエイラらしい力任せの活躍が見られたという。凱旋帰国後、兵士たちは愛国の英雄としてもてはやされ、メダルを胸につけて歩くようなカポエイラも出てきた。
またパラグアイ戦争に先立つこと約10年、防衛戦略として国民軍にカポエイラを組み込んではどうかという討議が、すでに政府の中でなされていた。町の厄介ものであると同時に、その武力を買われて癒着が深まっていく構造は、日本の政治家とヤクザの関係にそっくりだ。
カポエイラの犯罪化
カポエイラたちの横暴ぶりはあいも変わらず、1889年、帝政から共和制に変わったときに新政府のデオドロ・ダ・フォンセカ将軍は、カポエイラを犯罪として刑法に規定してしまう。それまではカポエイラの担い手たちが犯した犯罪が取り締まりの対象になっていたが、今度はカポエイラそのものが犯罪として規定されたのである。
路上や公共の広場などでカポエイラの練習をすると2ヶ月から6ヶ月の拘留に処された。容疑者がマウタに属していたり、そのリーダーだった場合には刑が倍化された。外国人の場合は服役後、国外追放になった。再犯、累犯には島流しが用意されていた。
1888年5月13日に奴隷制が廃止されているが、かつては有能な労働力だった奴隷も解放後はブラジルの発展に対する足かせとしか見られず、一方で平等主義を建前とする共和制にあっては、いかに黒人を社会に統合するかが急務とされた。
カポエイラのスポーツ化
さて法律で禁止されたカポエイラだったが、カポエイラをブラジルの国技にして、スポーツとして発展させようと提唱し始めたのは皮肉なことにリオの軍人、作家、知識人たちだった。1901年学者のメロ・モライス・フィーリョは、「カポエイラは芸術であり、護身の手段であり、何よりもブラジル固有の格闘技なのだ」と論じているし、1910年に作家のコエーリョ・ネトは、民間の体育教育や軍の学校にカポエイラを導入すべきだという提案をしている。その背景には、「ブラジル固有のもの、ブラジルらしさ」を求めるナショナリズムの心情があったのだ。
重要なのは、ここでいうカポエイラとは当時のリオのカポエイラを前提にしているということである。1928年にズーマが『カポエイラージェン -国民的体操-』を発表し、図解入りでカポエイラの動きを紹介しているが、名称も内容もバイーアのカポエイラとは大きく異なっている。何よりも決定的な違いは、カポエイラを文化としてではなく、格闘の技術としてとらえている点であった。
結局この試みは知識人の主導であったこと、リオのカポエイラが「ならず者のたしなみ」という負のイメージを抱えていたことから実らずに消えた。そしてカポエイラの本格的な発展は、やはりビンバのヘジオナウを待たねばならない。その成功の鍵は、黒人文化と白人のスポーツが折衷し、中産階級の若者たちに受け入れられたことにあるといえよう。
ヘジオナウとカポエイラの合法化
1920年代後半、メストリ・ビンバが伝統的なカポエイラに、バトゥキ、マクレレ、他の格闘技の要素を加えて新しいスタイルのカポエイラを創出した。それまでのカポエイラは動きもゆっくりで、技数も少なく、実戦には役に立たないというのがその理由だった。ヘジオナウのもともとの名称はルッタ・ヘジオナウ・バイアーナといって、「バイーア土着の格闘技」というほどの意味だった。カポエイラという語が使われていないのは、まだ合法化されておらず、迫害が厳しかったためである。これがしだいにカポエイラ・ヘジオナウの名前で定着していった。
軍事クーデターで政権の座についたヴァルガス大統領は、1932年、一連の大衆文化を解禁にし、その中にカポエイラも含まれていた。しかしその真意は、大衆のエネルギーのはけ口を解禁にしておいて、その支持を獲得し、逆にさまざまな形で規制を設けながら政府の統制下に置こうというところにあった。
1937年、メストリ・ビンバが作ったカポエイラの学校がバイーアの州政府に公認され、体育教育の科目として認められた。53年にはヴァルガス大統領の官邸に招かれ、ヘジオナウのデモンストレーションを行っている。
ビンバとヘジオナウの登場をきっかけに、カポエイラの主役はリオからバイーアにとってかわられる。カポエイラをするものの多くが下層階級の出身だった中で、ヘジオナウは大学生などの中産階級をひきつけ、カポエイラの社会的イメージの上昇に大きな役割を果たした。60年代、70年代にかけてビンバの弟子たちがブラジル全土に散らばり、スポーツとしてのカポエイラが急速に普及していく。
アンゴラの「誕生」
これに対して「ビンバは他の格闘技とごちゃ混ぜにしてカポエイラを汚した」という考え方を持つ人々もいた。これらの人々は伝統的なカポエイラを守るとしてアンゴラというスタイルを確立する。ここで中心的な役割を果たしたのがメストリ・パスチーニャだった。
パスチーニャは、「ならず者のたしなみ」というカポエイラの持つマイナスのイメージを拭い去り、伝統的な要素を整理して残したいと考えた。1941年、カポエイラ・アンゴラ・スポーツ・センターを作り、遊戯性、奥深い駆け引き、儀礼性を保持しながらカポエイラを普及していく。ペロウリーニョ地区にできたパスチーニャの学校は、サルバドールの観光名所にもなった。カポエイラであると同時に画家、詩人でもあったパスチーニャは、バイーアの知識人などにも多くの知己を得、一躍時の人となる。
ここで興味深いのは、伝統を受け継ぐために新たな伝統が創造されているということである。このときに生み出された「新しい伝統」には、アンゴレイロは靴をはいてカポエイラをせねばならない、ビリンバウは3本でパンデイロは2枚といった楽器の数などがある。また黄色のTシャツに黒のズボンという奇抜なユニフォームは、彼の学校のパトロンだったサッカー・チームのユニフォームの色にちなんでいる。
そもそもカポエイラ・アンゴラという名称自体が、ヘジオナウの登場に触発されて誕生、定着しており、それ以前にはただカポエイラ、カポエイラージェンという呼び方があったのみである。
サンパウロ、リオでの発展
今日につながるカポエイラの急速な発展の土台は、リオやサンパウロなどの大都市で築かれている。60年代後半から70年代にかけて、貧しい東北部から豊かな南部へ多くの国内労働移民が流れ込んだ。バイーア州からも例外でなく、その中には当然カポエイラをするものも多くいた。しかし彼らは決してカポエイラを普及するために都市に出たのではない。あくまでも仕事を求めてであったが、不慣れな大都会にあっては同郷の者どうしの強い結束が必要だった。そんな彼らが日曜日広場に集まれば、出るのは新しい仕事の話や故郷の家族の便り。そして誰ともなくビリンバウを弾けば、カポエイラやサンバが郷愁をいやしてくれるのだった。
ブラジルで最初のカポエイラ連盟ができたのもサンパウロであったし、スポーツとしてのカポエイラの発展について大規模は集会がもたれたのはリオであった。グループ・レベルでは、私の師匠メストリ・ブラジリアがメストリ・スアスナとともにグルーポ・コルドン・ジ・オウロを作ったのも60年代後半のサンパウロであったし、リオでは白人の若者たちが中心になってグルーポ・センザーラが活発に活動していた。現在ブラジル最大のグループ、アバダ・カポエイラを率いるメストリ・カミーザもセンザーラの出身である。
またカポエイラを引っさげて欧米にいち早く進出していったのも、サンパウロ、リオの2大都市からであった。
かといってカポエイラの本場というと誰もがバイーア、サルバドールと答えるのは決して誤りではない。カポエイラがここまで社会的に上昇したのは、バイーアにおけるビンバやパスチーニャの活躍があったからこそなのだ。今日カポエイラ人口の多い州が、サンパウロ、ミナス、リオ、バイーアの順で、その州人口の多さに比例しているのは、逆にそれほどカポエイラが一般のブラジル人に受け入れられている証だといえよう。